ジャケットMMA≒柔道+空手 KARATE+JUDO≒KUDO 御茶ノ水(淡路町・小川町)にある総合格闘技道場。

(社)全日本空道連盟 総合武道 大道塾 御茶ノ水支部

主将のコラム

コラム ~#31 › コラム #30~#1

column#1

空道とはなにか?

 空道って何ですか?
 そう訊かれた時、相手が格闘技に詳しい人でない場合「空手+柔道」と表現する。技術展開のイメージだけを伝えるならば、その5文字が適正かと思う。
 もう少し、本質的なことから説明すべき状況なら「本来の空手の概念を受け継ぐもの」と説く。「もともと空手とは打撃も組み技も“何でもあり”の状況で、打撃で闘おうとする格闘術だった。ただ、今は空手という言葉が“互いに打撃しか使ってはいけない競技”を指すようになったから、時代を受け入れて、本来の空手の概念について、空道という新たな言葉を当てはめたのだ」と。
 そして、「今、エンターテインメントとして、裸(スパッツ1枚)で闘う総合格闘技が流行っているけど、次に何が“来る”かといえば、着衣の総合格闘技…つまり空道だな」と、私見を加える。
 むろん、現在の裸体総合格闘技におけるファイター達の闘いは素晴らしいものだし、今後もファンを楽しませて欲しいと思っている。
 一方で、確信しているのだ。客にみせるための興行スポーツとしてでなく、競技として社会・市民に普及していくのは、裸体ではなく着衣の総合格闘技だろう、と。
 なぜか? 
 これから幾つかの理由を述べよう。

[現代人なら、服を着よ!]

 一般の人が、なぜ、打撃も組み技もOKの総合格闘技を好むのかといえば、要は“何でもあり”な分だけ“現実のケンカに近い”と思うからだろう。
 だが、プロスポーツというものは、何よりも“観て面白い”ことを求めて、試合形式が成り立つものである。だからこそ、流行の総合格闘技は、裸体で肉体美を魅せ、打撃から寝技までバランスよく行わせるルール設定で、“1対1の人間の総力戦”を表現するのだ。
 それに対し、現実社会で起こりえる“闘わざるを得ない場面”を想定すると、大抵は、服を着た状況であるだろうし、トラブルは1対1で起こるとは限らない。それによって、闘いのセオリーも変わってくるだろう。
 服を着ていれば、衣服の掴み合いになるだろうし、1対1でない場合、寝技で相手を制しようとしては、相手に助太刀がいた場合、対処できない。一方、自らは寝転ぶことを避けていたなら、敵の仲間が来たら、その場から走り去ってしまうことが可能だ。
 また、目突きや噛みつき、あるいは凶器による攻撃を避けがたいのは、相手と密着している場合であり、硬い路面への投げが警戒すべき攻撃であることから考えても、相手と組まないことが、護身としては最善だろう。もし、守らねばならぬ家族・仲間がその場から逃げ終えていたなら、もはや闘いなど無用である。
 …ここにあげたような“闘わざるを得ない修羅場でのセオリー”を実際の経験から学んだからこそ、“打撃で闘う”空手の戦法は生まれたに違いない。
 そして、空道は、そんな“本来の空手”の戦法を受け継ぐべく“現実社会で起こりうる闘わざるを得ない場面”での適応力を高めうるルール設定をしている。
 道着着用。むろん、寝技にも投げ技にも対応できなければいけないから、投げ・寝技あり。ただし、寝技には時間制限(1回につき30秒)あり。寝技の状態での打撃あり。強い投げにはポイントあり。全身への突き・蹴りに加え、頭突きや金的攻撃、ヒジ打ちあり。
 こんなルールによる大会“北斗旗”30年の歴史を経ることで、空道の数々のテクニックは、完成した。
 柔らかいマットを敷くことで投げの威力を奪い、噛みつき・目突き禁止とするなどで、寝技の効力を維持した“スペクタクル・スポーツ・バーリトゥード”でみられるスタイルとは、一線を画すものである。
 “現実のケンカ”への近さを総合格闘技に求めている人にとっては、着衣総合格闘技・空道は、その理想に合致するはずだ。

[大人が“実戦”を語る理由]

 前項までで“空道ルールが現実の闘いに即している”ことを述べたが、実戦性といったことを格闘技に絡める時、「実戦なんて言い出したら、ピストル持っているのが一番」「突き詰めていくと爆弾のボタンを押せる国の大統領が最強」といった論が返ってくることがある。「キリがないんだから、結局、格闘技に強さなど求めてはいけないよ。観て面白かったり、度胸や根性が鍛えられたりすればいいじゃん」と。
 しかし、面白いスポーツを観たければ、やりたければ、格闘技でなくともボールゲームで興奮は得られよう。度胸ならバンジージャンプ、根性なら氷に上に何分立っていられるかとか、そういうものでも身につけられるではないか。
 それでも、我々は格闘技を観たいし、やりたいのだ。それに、“相手の前でバック転出来たら2点獲得”というルールの格闘技があったとして、確かに面白いけど、何か腑に落ちない。
 なぜだろう?
 詰まるところ、これは本能に違いない。
ヒトもサルも、生きてゆくため、食べたくなるし、眠たくなる。それが達成できると、次に、異性を求め、自分の魅力を誇示すべく、同性同士で力比べをしようとする。優れた種を後世に残すために。さらに家族を守るためなら、身を挺して守ろうと思う。
 いくら文明が栄えようと、これらの本能に変わりがあるはずはない。収入に異性がついて来る世の中になっても、法律で身の安全が保障される時代になっても、やはり“体を張って闘わざるを得ない修羅場”での強さについて気になってしょうがないのだ。
格闘競技で養った技術が、そのまま100㌫護身に役立つかといえば、答えはノー。「何もやっていないよりはやっている方が、役に立つ可能性は高い」くらいに考えておくのが、妥当かもしれない。
 ただ、実際にそういった闘いを経験する時が巡ってくるかどうかとは関係なく、路上の有事を思い浮かべ、そこで上手く立ち回れる自分の姿を求めてしまうのは、もはやサガ。
「中学生じゃあるまいし、“ケンカでの強さ”なんて青臭い」と、クールに装うなかれ。年齢や文化に関係なく、ヒトであるかぎり、格闘技は“みたい・やりたい”し、そこに実戦性を求めるものだから。

[護身と競技の折衷点]

 “空道=現実の闘争に即した闘いを求めたもの”と論じてきたが、もっと実戦を追求した格闘技・武術は、幾つもある。
 例えば、模擬刀や模擬ピストルを使って、その対処法を研究する武術もあるし、階段だとか橋の上に似せた試合場を設け、そこで闘う競技もある。
 ただ、対武器などの護身を想定する武術は、どうしても型稽古が中心となる。危険すぎるゆえ、試合を行なえないわけだが、“勝った・負けた”の喜悲なしでは、型稽古のみを繰り返すことに向上心を保ち続けることが難しい面がある。
 一方、特異な試合場・ルールを設定しての競技は、勝敗が判断し辛かったり、闘いの情景があまりに奇抜だったりで、やはり一般には普及させづらい。
 むろん、これらの武術・競技に熱意を傾けるのも、反対に、ボクシングだとかテコンドーのように使う技を限定した競技で美しき攻防を楽しむのも、素晴らしいことだ。
 と同時に、その両サイドの中間にあり、実戦性を求めながら、同時に一般に広く浸透させられる“武道スポーツ”の形を取った空道は「実戦性も求めたいけど、試合も楽しみたい」と考える欲張りな大多数層のニーズに応えるものであろう。
 顔面に防具を着用して行なう試合を、安全性と実戦性の折衷点とした空道だが、当然、そのルールには“現実の闘争”とは異なる面が生じる。それでも、多くの人材がこの競技の面白さに魅かれ、試合に向けて試行錯誤を続けた30年間の結果、型稽古のみを続けていても得られなかったであろうスタイルの進化をみたことは、間違いない。
 さらに加えて、1980年代終盤から10余年、大道塾の選手達は、他の格闘競技ルールに挑み、その技術の良き点を学び取り入れることで、空道スタイルを完成に近づけてきた。
 グローブ着用打撃競技がブームとなった90年代初頭には、元ムエタイ王者とドローを演じる者や、キックボクシング世界王座を獲得する者がいた。90年代中盤以降は、裸体総合格闘技隆盛の中で、プロ修斗やパンクラスといった団体のトップコンテンダー達に勝利を収めたり、引き分けたり。
 常に格闘技界で勢いのある潮流に挑み、そこで好成績を残し、ファンに求められながらも、結局、選手達は、グローブ競技にも、裸体総合にも、身を染めなかった。
 2002年頃を最後に、こういった他競技ルールへの挑戦が激減しているのをみる限り、他から吸収する作業がほぼ完了し、後は空道競技内のみで、技術のレベルアップを図る時期に達したということだろう。

[マスク+拳サポのメリット]

 前項で述べた通り、空道では、顔面に防具を被り、手には拳サポーター(裂傷防止を目的とした薄い布状のものでクッションとなるスポンジなどは入っていない)を着用して行なう試合を、安全と実戦性の折衷点として採用している。
 なぜ、手にグローブをはめるのではなく、顔面防具なのか?
グローブをはめて日常生活を送る人も、防具を被って暮らす人も、当然、いない。グローブをはめて行なう試合も、マスクを被って行なう試合も、素面・素手での闘いとは、異なる現象が起きるのは事実。 
ただ、どっちが現実により近い攻防が出来るかといえば、顔面防具+拳サポなのだ。
 まず、ボクシングやキックボクシングで使われているようなグローブを着用したら、相手の衣服を掴む攻防が全く出来ない。
 裸体総合格闘技で使われているような薄めのグローブを着用しても、素面で試合をしたとしたら、衣服を掴んでのヒジ打ちや頭突きを喰らった側が、顔面表層部に重傷(骨折・裂傷など)を負うことは目にみえている。立ち技打撃中心の展開でのワンデー・トーナメントにおいて、そんなルールで選手を闘わせることは、不可能といっていいだろう。
 だからといって、素面で試合する代わりに頭突きや、掴んでの打撃を禁じたのでは、求めていた攻防から、あまりにも遠ざかってしまう。
また、グローブ着用の格闘技では、両手を上げることで相手のパンチをブロックするのが基本のひとつだが、これは、グローブの体積があるからこそ、守る側の顔面が守られ、攻める側のグローブが隙間を通らないに過ぎない。
 素手・素面の状況ならば、顔面をガードで守ることは出来ない。相手の拳は、腕の間の隙間を通ってしまう。 
 防具を顔に付け、グローブをはめない空道のルールでは、素手・素面の状況と同じく、両腕ガードで相手のパンチを凌ぐことは難しい。この点でも、顔面防具制は、現実の攻防に近い。
 確かに、素面で試合を行なうことのメリットもある。顔面に痛みを感じられる点で、現実に近いし、観る側にとっては表情がよくみえる。
 だが、エンターテインメントとしてでなく“やる側”のための競技として、一般市民に“模擬実戦”を提供することを目的とするならば、素面競技のこれらのメリットの大きさは、“顔面防具+拳サポ”のメリットの量に、及ばない。   ・・・つづく

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