ジャケットMMA≒柔道+空手 KARATE+JUDO≒KUDO 御茶ノ水(淡路町・小川町)にある総合格闘技道場。

(社)全日本空道連盟 総合武道 大道塾 御茶ノ水支部

主将のコラム

コラム ~#31 › コラム #30~#1

column#34

もし、格闘技や空道にかんして
セールストークをするならば…

 就職活動だったり、役所や会社への申請、広告営業、賃貸物件の交渉等において、格闘技の活動をなんらかの場で評価してもらわねばならない状況ってあるよね。
 そんなとき、うまく説明できず、ウキ~ッってなることってあるよね。
 よくある問いを挙げ、その回答を考えてみたい。

Q1. 格闘技をやる人って野蛮なのでは?

A. はい、格闘技は暴力的です。しかし、だからこそ、ラットホイールの役割を果たします。ラットホイールとは、シマリスやハムスターがケージのなかで回す“わっか”のことです。ネズミたちは、あのラットホイールがあってこそ、狭いスペースで、ストレスを抱えず暮らすことができます。
 同様に、人間が社会のルールを守って、ストレスを抱えず、平和に暮らしていくためには、格闘技はとても有益です。なぜなら、人類もほんの数千年前までは、弱肉強食の世界で暮らしていた動物であり、それゆえ、生きてゆくため、食べたくなるし、眠たくなる。それが達成できると、次に、異性を求め、自分の魅力を誇示すべく、同性同士で力比べをしようとする。優れた種を後世に残すために。いくら文明が栄え、収入に異性がついて来る世の中になっても、法律で身の安全が保障される時代になっても、この本能に変わりがありません。古代文明の時代に、この暴力的本能を、ある程度の安全確保とフェアプレーのもとに発散させる場を設けたのが、格闘技のルーツであり、すべてのスポーツは、この古代格闘技を起点に派生した代替物に過ぎないといえます。
 現代においても、暴力的本能を押し殺すことを強いるよりは、発散させる場を設けることが、争いごとを防止する根本的な解決法となると考えられます。全力ダッシュを織り交ぜながら800mを駆け抜けるような激しい運動を自らは行いながら、相手に殴られ、蹴られ、投げられ、絞められるという競技は“苦しさ×怖さ”の掛け合わせにより“もっとも辛いスポーツ”といえるでしょう。もっとも辛いからこそ、格闘技に親しむ者は、日常生活においては穏やかな暮らしを望むようになります。
 世界中の権力者が格闘技をやってくれれば、戦争も起こらなくなるのでは? と思うほどです。「多民族が住む海外の都市において、路上では民族間の対立が絶えないのに、“殴り合い”をするために集まるジム・道場では、黒人も白人もイスラム教徒も仏教徒もリスペクトしあっている」というのもよく聞く話。“格闘技こそが地球を救う”のだと訴えたいです。

Q2. 格闘技をやる人って、ワガママで協調性がないのでは?

A. 格闘技は個人競技です。試合コートに立てば、誰にも頼らず、1 対1で相手と闘わねばなりません。されど、そこに怖く辛い時間が待っているからこそ、コートに飛び出す寸前まで、いかにコーチや仲間がサポートするかが、その個人の勝利のために重要となります。F-1レーサーの勝利の陰に、多くのピットクルーの尽力があるのと同様、格闘技もまた、チームメンバーたちの間に協調性・信頼関係があってこそ、勝利を得られるものです。そして、その練習においては「ひょっとして相手は全力で打ってくるんじゃないか? だったら、先にこっちから強い攻撃を加えてしまおうか」というような気持ちもたげてくるのを拒む自制心を双方が持っていなければ、互いの体を蝕んでしまいます。とりわけ緊張・恐怖を感じるスポーツだけに、協調性がある者しかできません。

Q3. 格闘技をやるのって楽しいの?

A. 「○月□日に誰それと殴りあう」。そんなことが決まっているなかで、その日までの日々を過ごさねばならないことは、相当なストレスです。そして、“苦しさ×怖さ”の相乗のなかで争われる格闘技の試合は“もっとも辛い競技”といえるでしょう。しかし、だからこそ、一本勝ちやKOで勝利を得たときには、瞳孔が開きっぱなしになるような高揚感が得られ、一度、格闘技に取り組むと、他のスポーツにはもはや、刺激が感じられず、モチベーションが上がらないほどです。

Q4. 格闘技ってマイナースポーツですよね。やってる人いるの?

A. 日本でメジャースポーツといえば野球ですが、実は野球は“ルールがシンプルであること”“道具に費用が掛からないこと”というスポーツ普及の二大原則から逸脱しており、ごく僅かな先進国でしか普及していません。一方、格闘技は、本能に根ざしたプリミティブなスポーツですので、ルール説明などしなくとも、世界のどんな国の人でも興味をもつものであり、実際、格闘技が行われていない国というのは、ほぼ存在しません。ヨーロッパを旅したことのある人ならば、現地の人に「空手か、柔道はできるんだろ? えっ、やったことない? じゃあ、どんなスポーツを? 野球だって? なんでせっかく日本に生まれたのに武道をやらずに、アメリカのスポーツなんかやったんだい?」と呆れられた人も多いはずです。

Q5. でも、格闘技って、日本では、学校の部活でも見かけない…。

A. そうですね。柔道を除く徒手格闘技は、部活ではあまり行われておらず、民間運営の道場やジムが主な活動の場です。しかし、それは“劣る”ことなのでしょうか?

 我が国の“部活”で行っているスポーツ競技においては、中学の指導者にとっては生徒が中学生の間に獲得した実績だけが手柄になるのであり、高校の指導者にとっては生徒が高校生の間に獲得した実績だけが手柄となるため、生徒の3年後すら考えない、即席栽培式の育成が行われています。選手は、スポーツの実績によって高校・大学への進学や就職が決まるために、勉学をないがしろにしてまで、練習に打ち込んでいます。このようなシステムこそが、一流のアスリートに社会常識が備わっていなかったり、感情的な体罰がまかり通ったりといった、昨今の問題を引き起こした要因だとも考えられます。

 このような日本の部活主体の少年育成に対し、欧米のクラブチームでは「一人の人間がスポーツ競技を行ううえでパフォーマンスのピークを発揮すべき20 代後半~30 代前半に向けて、長期計画的に指導プログラムを立てる」ことが当たり前となっており、結果的に、障害予防や、社会常識を学ぶ機会を維持することに繋がっています。

 これらのことから(プラス思考で)考えると「民間が練習環境を用意している」という格闘技界の状況は「悪しき部活主体の少年育成でなく、クラブチーム的な長期育成ができる」素晴らしい環境だともいえるでしょう。

Q6. 格闘技って、ブームも終わったみたいだし、将来的にどうなの?

A. 興行・ショーとしてのプロ格闘技がブームになろうと、終わろうと、“やるスポーツ”としての格闘技は未来永劫愛され続けるでしょう。
 第一に、闘いたいという気持ちが動物的本能であるから。
 第二に、「球技は学生スポーツか、プロでしか取り組めない。格闘技は、一般の社会人が日々親しめる」という面があるから。チームスポーツはメンバーと示し合わせて練習時間を確保せねばならないので、社会人ともなると、土日くらいしかプレーできません。さらに、球技は行うのに広いスペースを要するので、教育機関か、プロチーム、公共施設(コートの使用に抽選を要する)ぐらいにしか練習場が存在せず、一般社会人が好きな時に通えるような練習の場は存在しません。それに対し、格闘技ならば、個人競技ですから一人で練習できますし、民間経営の道場・ジムが首都圏でもいたるところにあります。なぜ、格闘技のジム・道場が民間で運営できるのかといえば、学校の教室の半分ほどのスペースがあれば、10 名なり20 名が同時に練習を行うことが出来るからです。卓球ですら、2名がプレーするのに少なくとも5 メートル四方くらいは必要なのに対し、格闘技は2 名がスパーリングを行うのに2.5 メートル四方くらいのスペースがあれば足ります。天井の高さも不要です。それゆえ、一般の商業ビルのテナントで十分に経営を成立させられるので、“ショバ代”のクリアが難しい都心においてもビジネスを展開させられるのです(ダンスやヨガのスタジオが民間で経営可能なのは、同様に一人当たりの占有面積が狭いからです)。人口の都市集中が収まらない限り、格闘技はますます一般に親しまれるものとなるでしょう。
 第三に、環境問題が深刻化すればするほど、優良な娯楽となるから。たとえばゴルフは、山を切り崩した所に車で行って、多くの道具を使って(それを女性に運ばせて)行うスポーツです。それに対し、グラップリング(道着を着ずに行う組み技競技)は一切の道具を使わず、普段着のまま、フラットな小スペースさえあれば行いうるスポーツです。これほど“何もいらない”スポーツは他にないともいえます。
 第四に、ストレス社会において、ワクチンのような役割を果たすから。“苦しさ×怖さ”の相乗のなかで争われる格闘技の試合をこなせば、ビジネスにおけるストレス程度では動じない心が養われます。IT 化する現代社会のなかで、格闘技に対するニーズはますます深まるように思われます。
 最後に。昨今、教育現場における体罰の是非が問われています。やはり教育においては、痛み→恐怖によって生徒をコントロールするのでなく、論理や愛によって納得させることが大事かと思います。一方で「殴られたら、蹴られたら、どれくらい痛いか」ということを身をもって経験する機会がまったく失われたのでは、逆に“やられる側の痛みを知らず、弱いものいじめをする子”が増える危険もあるでしょう。そのようなことから考えても、今後、一層、格闘技を学ぶことの意義は高まるかと思われます。

Q7. その格闘技と、武道ってどう違うの?

A. 格闘技というのは、本来、暴力的なものです。相手を叩きのめさねば、自分がやられる……そういう場です。しかし、だからこそ、その恐怖のなかで、相手を敬い信じる静かな心を維持できるように努めるならば、闘いは最高の精神修養の場となる。そんな逆転の発想によって生まれた、我が国独自の文化が武道です。

Q8. その格闘技・武道のなかで空道って何?

A. 空道は、総合格闘技を武道化したものです。道着着用で、全身への突き・蹴りに加え、頭突きや金的攻撃、ヒジ打ちあり。投げ・寝技あり。“着衣”ד総合”という組み合わせは、あらゆる格闘技のなかでもっとも実戦的で、多彩な展開を生みうるものです。従って、選手個々の創意工夫によって、無限の妙技が生まれる競技。やることが多い分、飽きが来ず、また、防具着用により安全度が高められているため、生涯の友とすることが出来ます。
 総合格闘技のなかで、世界50 カ国以上の代表が集ってトーナメントを争う大会を開催しているものは、空道以外にはありません。歴代王者の中には、現在はプロの世界で活躍するセーム・シュルトらがいます。空道は、総合格闘技でありながら、興行として大会運営が行われることがない競技です。“社会体育””武道“という面に拘りを持った、安全性の確保や礼儀作法の遵守に重きをおいたルールのもと、試合は争われます。

Q9. 総合格闘技って、打撃も投げも寝技も中途半端なのでは?

A. その通り。ボクサーより雑なパンチと、柔道家より雑な投げと、レスラーより雑なタックルと、柔術家より雑な寝技と、ムエタイの選手より雑な蹴り技。それらを併せ持つ者が、総合格闘家です。
 100 メートル走やボクシングなど、シンプルな競技は、そのシンプルな動作を研ぎ澄ます繊細さに魅力があり、生まれ持ってのポテンシャルを問われる世界。その闘いは気高いものです。
 片や、デカスロンや総合格闘技のような“やることの多い競技”にも、真逆の魅力があります。学習量に応じて強さが増していく世界…つまり、資質によらず、長い競技歴を持った時こそ(例えその時フィジカル面が多少衰えていたとしても)、成績を残せるのです。また、やることが多い分、日々、発見があり、観る者も、やる者も、飽きることがありません。
 シンプルな競技と、複合的な競技。人によって好き・嫌いはあるかもしれませんが「こっちが正しくて、あっちはくだらない」ということはありません。ウサイン・ボルトも、キング・オブ・アスリートと呼ばれるデカスロンのチャンピオンも、どちらも尊敬されるのは、当然のことです。

Q10. 実戦に拘るなら、対武器を想定するべきでは?

A. 対武器などの護身を想定する武術は、どうしても型稽古が中心となります。危険すぎるゆえ、試合を行なえないわけですが、“勝った・負けた”の喜悲なしでは、型稽古のみを繰り返すことに向上心を保ち続けることが難しい面があります。一方、階段だとか、壁際だとか、特異な試合場・ルールを設定しての競技は、勝敗が判断し辛かったり、闘いの情景があまりに奇抜だったりで、やはり一般には普及させづらい。
 むろん、これらの武術・競技に熱意を傾けるのも、反対に、ボクシングだとかテコンドーのように使う技を限定した競技で美しき攻防を楽しむのも、素晴らしいこと。
 と同時に、その両サイドの中間にあり、実戦性を求めながら、同時に一般に広く浸透させられる“武道スポーツ”の形を取った空道は「実戦性も求めたいけど、試合も楽しみたい」と考える欲張りな大多数層のニーズに応えるものでしょう。

Q11. 実戦に拘るなんて、意味がないのでは?

A.「実戦なんて言い出したら、ピストル持っているのが一番」「突き詰めていくと爆弾のボタンを押せる国の大統領が最強」といった論ですね。「キリがないんだから、結局、格闘技に強さなど求めてはいけない。面白かったり、度胸や根性が鍛えられたりすればいいじゃん」と。
 しかし、面白いスポーツをやりたければ、格闘技でなくともボールゲームで興奮は得られるでしょう。度胸ならバンジージャンプ、根性なら氷に上に何分立っていられるかとか、そういうものでも身につけられるでしょう。それでも、我々は格闘技をやりたいし、“相手の前でバック転出来たら2 点獲得”というルールの格闘技があったとして、何か腑に落ちないのは、詰まるところ、それが本能だからです。いくら文明が栄えようと、動物である限り“何も道具を使わないで体ひとつで闘った場合の強さ”が気になるのです。
 格闘競技で養った技術が、そのまま100 ㌫護身に役立つかといえば、答えはノー。「何もやっていないよりはやっている方が、役に立つ可能性は高い」くらいに考えておくのが妥当。ただ、実際にそういった闘いを経験する時が巡ってくるかどうかとは関係なく、路上の有事を思い浮かべ、そこで上手く立ち回れる自分の姿を求めてしまうのは、もはやサガ。年齢や文化に関係なく、ヒトという動物であるかぎり、格闘技はやりたいものなのです。

……いうまでもなく、セールストークの内容は、対象によって変わる。ここに記した内容は、役所や会社への交渉等において、格闘技・武道だとか空道自体を売るためのトークゆえに「厳しいからこそ尊い」といった論調になっているが、生徒募集などにおいては、別の側面、「厳しくないですよ。楽しくできますよ」という面をPR せねばならない。

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