近年、社会は加速度的にコンピュータに依存する率が高まっている。大人の世界で業務のテレワーク化が進み、子どもの世界では、友だちとの遊びは通信でコンピュータゲームを行うことが主となりつつある。
感染症に対するトラウマと相まって、人と人との接触、スキンシップが減る傾向が強まれば強まるほど、その対極にある格闘技、人と人とが肌を突き合わせ痛みを与えあうスポーツの意義はより高まるように思っている。
子どもの段階で、友だちに殴られたり、蹴られたり、首を絞められたり、ホウキを振り回されたり……いや、それどころか抱きつかれたり、身体に触れられたりといった経験すらないのでは、コミニュケーションの「加減」や、コンタクトの痛みや危険性を知らぬ社会人になってしまうのではないか?
そんなことを考え、武道スポーツこそが次世代が平和な世界を構築するために重要な意味を果たすのではないか、と、誇りと責任を感じ、日頃、生徒たちには、試合で勝つことが最終目標でなく「拳や足を相手とぶつけあい、投げあう競技を通じ、痛みを知り、それによって、思いやりを身につける」ことが目的なのだと説いている。
人間も動物である以上、同性同士で能力を比べ合って誇りたいという本能があるはずで、たった百数十年の社会の急変によってその競うべき能力がフィジカルなものから知的なものに変化しようと、何百万年ものDNAの伝播のうえに宿る「フィジカルの比べ合い」への欲望は失われるはずもなく、リアルに身体接触を伴って闘う行為(≒スポーツや格闘技)は、次世代がコンピュータ社会において抱えるストレスを緩和するために、より有益な文化となるものと確信しているからだ。
ところで、話は少し逸れるが「少年部の基本稽古においては肘打ちと金的蹴りは行わない」とされているのはなぜなのだろう? 「それが危険な技だから」というのであれば、私は違和感を覚える。
例えば、私の指導方針においては、少年部においても、裸絞めを教えるが、これは「この技を体感することによって一定時間、頸部を圧迫されることが危険なことを学べる」「この技がアンチブリ―の手法として適している(護身において相手を傷つけずに降参させることが可能な平和的解決法である)」からである。
「子どもに首の絞め方を教えるなんて危険ではないか?」という捉え方もあるだろうが、要は私は「子どもの頃に肥後守を与えられ、鉛筆を削らされてこそ、ときに自分の指を傷つけてしまったりするなかで、刃物の怖さを学べる」と考える派である。
「刃物は持たすな。公園の遊具にせよ、缶切りにせよ、危ないものは子どもの周辺から排除せよ」という教育の考え方も、間違ってはおらず、つまりはどちらの方針もメリット・デメリットがあるのだとは思うが「危険排除」の方針を採る理由として「何かあったときの教える側の責任問題を回避するため、なるべくなにも起きないようにする」という保身の目的も濃くあるようには感じている。
そういったことから、そもそも武道自体が「危険とされる行為を、逆転的に教育に生かす」という発想を伴って創始されたものであるならば、少年部の(スパーリングでなく)基本稽古や二人組みの型稽古において、金的蹴りや頭突きや肘打ちや絞め技を実施することに問題はない、と判断している。