ジャケットMMA≒柔道+空手 KARATE+JUDO≒KUDO 御茶ノ水(淡路町・小川町)にある総合格闘技道場。

(社)全日本空道連盟 総合武道 大道塾 御茶ノ水支部

主将のコラム

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column#13

続・2011年無差別全日本所感
~少年競技のありかたについて~

 少年の競技者人口が増えるのは、言うまでもなく良いことだ。
 民間が練習環境を用意せねばならない、新興武道においては「少年や女性、シルバーエイジ向けのレッスンを盛況にして、その収益によって、青年層の選手育成をフォローする」というかたちに持ち込むことが理想ともいえるだろう。
 ただ、少年層の育成に関しては“間違った熱の入れ方”に陥りやすいので、気をつけねばならない。
 間違った熱の入れ方とは何か?

 ひとつは指導者や親が、勝敗至上主義に走ることだ。

 学校での“部活”で行っているスポーツ競技においては、しばしば、中学チャンピオンになった…高校王者になった選手が、その後、大成せずにフェードアウトしていくケースがみられる。
 中学の指導者にとっては生徒が中学生の間に獲得した実績だけが教師としての手柄になるのであり、高校の指導者にとっては生徒が高校生の間に獲得した実績だけがその手柄となる。
 こういった“輪切り”のシステムの世界では、生徒の3年後すら考えない、即席栽培の育て方をした結果、精神的にバーンアウトしたり、オーバーユースによる故障を負ったりする10代が少なからず生まれる。
 このような日本の部活主体の少年育成に対し、欧米のクラブチームでは「一人の人間がスポーツ競技を行ううえでパフォーマンスのピークを発揮すべき20代後半~30代前半に向けて、長期計画的に指導プログラムを立てる」ことが当たり前となっている。そもそも、多くの国・多くの競技で「子供の全国大会」なるものを行っていないケースも多い。「その段階でチャンピオンとなることに価値を求めてはいけない」というオトナの理性があるからだろう。

 このことから(プラス思考で)考えると「民間が練習環境を用意している」という空道の状況は「悪しき部活主体の少年育成でなく、クラブチーム的な長期育成ができる」素晴らしい環境だともいえる。
 各指導者には、U18、U15、U13…の世界大会、全日本大会が開催されるからといって「そこで勝つための方法」を磨かせるのでなく、民間道場というクラブチームの利点を活かし、長期的展望を持った育成を続けて欲しいと思う。
 もちろん、移り気な子どもたちの目の前に“飴”を吊るしてやるのもよき方法ではある。だが、あくまで“ある程度までの飴と鞭”だ。さまざまなスポーツ・武道の少年大会の現場に足を運んでみると、この国では、ヒステリックに子供を叱る指導者や、反則してでも勝てば誉めるといった考えの親があまりに多く閉口する。我が競技・武道だけは、そのような世界になって欲しくはない。

 もうひとつ“間違った熱の入れ方”だと思うのは、親が「武道をやらせれば躾が身につき、従順な子供になる」というような過度な期待を持ち、それに応えうるよう指導者が「笑顔をつくってはいけない、何を言われても押忍!と叫ぶ」といったアティテュードを少年のクラスにつくっているケースである。

 むろん、武道は素晴らしい教育となる。
 武道の修養を通じて、自制心や相手を敬う気持ちは身につくであろう。相手に敬意を払えば、自然と礼儀を尽くすようにもなる。
 ただし、その理性は、身体活動においてもっとも緊張を伴なう「相手と格闘する」という行為の繰り返しを媒介とすることを主要因に生まれるものであり、多くの人が武道という言葉に抱くイメージ…ビシッと整列して・笑わず・背筋を伸ばして押忍と叫び・指示に従い一糸乱れぬ動作をする…そんな行為の反復が育むのではない。
 文明開化とともに、さまざまなスポーツが日本にやってきたとき、それが“遊び”でなく“体育”と解釈されたのと同様、武道も、本来のかたちから捻じ曲げられた姿で教育の現場に取り入れられたものと推測している。軍国主義のもとで、服従・奉公を誓う都合のよい民を量産するために変質した部分が少なからずあった、と。
 その頃に形式づけられた「ビシッと整列して・笑わず・背筋を伸ばして押忍と叫び・指示に従い一糸乱れぬ動作をする」稽古の進め方は、凛としたイメージを与えるものだが、武道の本質というわけではないだろう。
 その部分だけを過剰に強調しすぎると、礼儀が出来ているといえば聞こえはよいが、「押忍の精神」なるサド・マゾ的な空気に酔っている、或いはロボトミー手術を施されたように主体性のない、或いは帰属意識に支えられている…そんなイエスマンをつくることになりかねない。
 武道に限ったことではなく、他のスポーツをみても、汚い言葉で子どもを怒鳴り散らし、萎縮させることで統制を保っている高齢指導者は未だに多い。彼らは、戦中戦前に体育・武道教育を受けた世代の子どもの世代であり、さらに自分たちの孫の世代に、同じ教育を与えようとしている。
 このような流れを引き継ぐのは、我々の世代で最後にしたい。もちろん、武道やスポーツにおいて、礼儀は重んじる。されど、親は「躾は家庭で身につけさせるものであって、教育や習い事に押しつけるべきものではない」ことを理解すべきだし、武道・スポーツの指導者は、恐怖を与えることで子どもをコントロールするのは「どうしても上手くいかないときの最終手段」だと肝に銘じるべきだ。

 結論からいえば、10代で燃え尽きる競技者をつくらないためにも、主体性のないイエスマンをつくらぬためにも、少年層の指導においては「そのスポーツ・武道の楽しさを感じ、笑顔でいられる範囲で稽古を進める」ことに主眼を置くべきかと思う。
 そして、ときには「負けることの悔しさ」を味わせよう。決して、勝たせ続けることが大切なのではない。

先日、塾長から「昇段審査の相手が足りないんで、出来ないか?」とご連絡いただいたが、ケガをしていたので、お断りした。「押忍の精神」に拘る団体だったら、たとえ自らのケガを悪化させるリスクが大きかったとしても、当然、答えは「オス! やります」しかないのだろう。塾長・連盟の寛大さに感謝すると共に「自分も“NOといえる武道人”を育てていけるよう、後輩に対して無理を強いないように気をつけよう!」と思った。
先日、某武道場で、泣きじゃくる子ども(小学校低学年くらい)を相手に突き・蹴りを繰り出す道着姿の夫婦を目撃。自分の果たせなかった夢を子どもに背負わせ、シゴきまくるのはよくないと思う。ただ、同様の環境で立派なアスリートが生まれた事例も多々あるから、完全に否定もできないが…(2月11日追記)。

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