ジャケットMMA≒柔道+空手 KARATE+JUDO≒KUDO 御茶ノ水(淡路町・小川町)にある総合格闘技道場。

(社)全日本空道連盟 総合武道 大道塾 御茶ノ水支部

主将のコラム

コラム ~#31 › コラム #30~#1

column#17

変わらぬ20年前からの思い B面

「Aとも思っているけど、一方でBとも感じている」
 そんな多面性が、人の心にはある。
 でも、それを全部、正確に伝えようとすると、難解な長文になるから、思っていることの一面だけを綴り、テーマに沿ってないことはスパッと捨てて、短い文章をつくる。そうすると、分かってもらいやすいんだけど、同時に、語弊も生みやすい。
 短くまとめた前回のコラムを読み返してみたら、自分がずいぶんキチンとした人間のように読めて、小っ恥ずかしい気がしたので、ここで、ダラダラと補足しておきたい。

 そもそも、強い心を持ってるわけじゃない。
 10代の頃は、長田、加藤、市原……といった面々が揃う総本部のスパーが怖くて。横浜の自宅から1時間40分電車に乗って、有楽町線・平和台駅を降りて、総本部まであと30メートルというところまで歩いてきたところで、なんだか頭が痛い気がしてきて「今日は事故になりそうな気がする…」と、踵を返して帰宅したことがある。もちろん、頭痛は池袋に戻る頃にはすっかり収まっていた(笑)。
 このテの情けない話を書いたら、キリがないくらいだ。

「収入を得るのはデスクワークで」と考え続けたのも、前提として、自分にはプロ選手に必要な資質がないと、見切りをつけていたからこそ。もし、自分自身にその資質を十分に感じていたなら、拳と足で食っていく道を選んでいただろう。
 主将の考えでは、プロとは、競技者である前に芸者。客を楽しませるのが仕事だ。客が楽しめない試合運びをする者には、プロになる資格はない。つまり、プロになる資格のある人間とは「相手を倒す能力を持っていて、積極的な試合運びをするメンタリティーのある」人だ。「コンペティション・スポーツのひとつとして格闘技を捉え、自らが傷つかないことや、スレスレでもいいから勝利を収めることを大切にする人」は、アマチュア競技の世界にとどまるべきかと思う。
 主将は「ある程度、試合をリードしていたら無理にKOを狙わず、確実な判定勝ちを狙う」「自分がダメージを負うリスクのある攻撃はなるべくしない」選手だったから、アマチュアの道を歩んだのは、妥当な判断だったと思う。
 アマ修斗で全日本を獲った後は「数戦でもしておけば、プロ選手という肩書きは、今後、仕事(格闘技雑誌・書籍の編集)のうえで役に立つ」とか「そこに進める権利を与えられたのに放棄するのは『オレは本気出さなかっただけ』みたいな逃げじゃないか」といった考えから、会社員を続けながらプロ競技に参加する方法を模索してもいた。
 一方で、仕事(試合リポート)を通じて「プロならばつまらない試合運びをするな!」と論じてきた書き手自身が“塩漬け”試合を連発したら、矛盾するなぁと思ったし「本分たる空道で世界選手権を目指すなら、もう今しかない」という気持ちも大きかった。
 結果として「着衣と無着衣、両方を並行してやるのは、自分の能力では無理。選ぶなら空道しかない」という方針になったが、決してプロ競技に魅力を感じなかったわけではない。

 仕事を通じて、UFCや<Gタイの王座を目指しているようなプロ選手たちと触れ合うと、技術や練習に対する姿勢、また、その人格に惚れ惚れすることも多い。主将には、クーベルタン~ブランデージ的な“アマチュアこそ清い”という思いもないし、社会体育という言葉が努力を怠ることの言い訳に使われるのはイヤだ。
 企業で要職をこなしながら好戦績を残すプロファイターもいる一方で、トップレベルの柔道家が警視庁勤務という肩書きで給料を(それも税金によって賄われる高給を)貰いながら、実務を免除され、出身大学の部に出続けているだけだったりする。アマチュアだとかプロだとかのカテゴリー分けをすること自体、もはや意味が薄い。

 とはいえ、口に糊するためでも、また経歴づくりのためでもなく取り組んでいる物事に、本当のLOVEがあるのは確かなことだ。
 ――ただ、その行為を、瞬間ごとに楽しむために、行っている。
 それこそが、本当のスポーツであり、アマチュアリズムであり、武道もまた、そのLOVEのなかで嗜まれるべきものだとは、思う。

「試合に出ないのに、なんで毎日練習しているんですか?」
 2005年を最後に競技から遠ざかって以来、しばしば、学生たちは不思議そうに訊いてくる。
「試合のために稽古しているんじゃなくて、試合が稽古のためにあるんだ」
「試合がなくても毎日稽古できるようになったから試合に出ないんだ」という返答は、18、19の若者たちには、理解しづらいものだろう。  試合とは“試し合い”に過ぎず、多くの制限を設けて行うからには、武道(武術)の求めるすべてを満たすものではない。本当に心の強い者ならば、試合などしなくとも、日々、武道本来の稽古に挑めるはずだ。  だが、主将を含め、多くの人は心が強くない。
 何か、目の前に“にんじん”をぶらさげてもらわなければ、とてもじゃないが、高い集中力で毎日、稽古に挑み続けることなど、出来はしない。本来、いつまでも変わらず“初心”のままでいるべきなのに、昇級・昇段によって帯の色が変わっていくシステムが設けられているのも、そのためだろう。
 気弱な若者にはアイデンティティーが必要だ。試合で勝つ、○×大会優勝というキャリアをもつことは、社会生活で役立ったり、そうでなくとも内面の自信に繋がる。
 だからこそ、試合は必要不可欠なものなのだが、それが最終目標ではないということも忘れてはいけない。最終目標は日常のなかにあるのであり、本来の武道(武術)の稽古には、ピリオダイゼーションも、対戦相手に応じた戦略の研究も、あるはずがない。
 若者も、ただキャリアが欲しいだけでなく、本当にその行為自体に対しLOVEがあれば、やがて、日々の稽古を楽しめるようになる。
 殴り合い、蹴り合い。痛み。試合があるからこそ、耐えてきたそれらが、試合がなくとも、楽しめるときが来る。そのときこそが、本当のスポーツ、本当の武道、本当のLOVEのはじまりなのだ。

「趣味としての遊び」とは、そういうことだ。

 ……ちなみに。
 いつか…、再び試合に出ることもあるのかもしれない。武道やアマチュア競技に、引退というものはない。そのとき、50歳だろうと、60歳だろうと。稽古への集中力の低下を感じるときが来たら、心に火をつけるために、昇段審査なり、空道の試合なり、アマチュア修斗の試合なりに挑むことになるだろう。

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