オリンピック、終わったね。
友人たちと飲んでいて「小原の金メダルが、彼女の苦労を思うと泣けてさぁ…」なんて話をしたら“オリンピックなんてみてねぇ~よ”派が多勢でまったく盛り上がらず、がっくし。
どうも「オリンピック=国の威信を懸けた闘い=そんなものに興奮するのは、世界平和を願う国際人としても真のスポーツ愛好者としても、クールじゃない」というような、その場の雰囲気で。
主将は、テレビを観ながら、子どもたちと日本選手の応援に盛り上がってた。4 年前は、北京で、おおいに国旗を振ってきた。
果たしてそれは、右翼的な行為なのか?
主将は、基本的に「世界が国連かなんかのもとに、ひとつの国のようになって、みんなが平等になればいいのに。自分も自分の子どもも含めて、今よりずっと暮らしが貧しくなってもいいから、世界中の人が、貧富の差なく、平均的な暮らしを出来るようになった方がいい。環境が維持できるライン(サステナビリティー)を模索して、そのレベルにまで全人類の生活レベルを落とせばいい。(徐々に)原発をなくして、相当に寒い・ひもじい思いをすることになるとしても、周りもみんな一緒なら、別になんとも思わないんじゃないかな? 幸福感なんて、周りと自分を比較して感じるものだから、便利な暮らしをしていようと、原始的な暮らしをしていようと、みんなが同レベルの暮らしをしているならば、あんまり変わらないんじゃないかな?※1
産業におけるテクノロジーは、モノを大きく・強く・速くするんじゃなく小型化・小エネルギー化する方向でのみ活かされればいい。医療での進歩は、無理に長生きさせるんじゃなくて苦しまずに死んでいく方向のみに、向かえばいい」と思ってる派。
少なくとも「我が子のためには、我が国を世界で一番、幸せな国に」などとは思わない。
それでも…というか、だからこそ、オリンピックのようなものにおいては、国旗が揚がり、国歌が流れることを喜ぶべきかと思う。
オリンピック…というか、スポーツ全般というのは、ケージのなかのハムスターに与えられたわっかのようなものではないか。
ヒトが動物であるかぎり自らのもつ「残虐性」「他を制して自分の優秀さを示したい感情」「自分が何らかのグループに帰属していることを意識し、他の誰かを蔑むことによって安心したい気持ち」から逃れることはできるはずもなく、その一方で、ヒトに地球を破壊しうるほどの知能が備わり、社会においてはそれらの本能を封じ込める必要が生じたからこそ、それら本能を存分に解放する代替の場として、スポーツが有用なわけで。※2
スポーツ(広義で「遊び」…芸術などを含む)を行う者は、相手を打ち負かすこと、栄誉を与えられることで優越感を得る。※3
スポーツを観る者は、自分に近いキャリアを持つ者を応援し、他に罵声を浴びせることで帰属意識を満たす。※4
それでこそ、わっかをくるくると走り続けるハムスターと同様、社会というケージのなかで、閉塞感をもたずに生きていけるのではないか。※5
だから、実社会においては生活レベルの平均化が進められることを受け入れつつ、スポーツにおいて名誉・地位を得ようとすること、国際的な大会の観戦において自らの国を応援することが、しごくまっとうかと。※6
平和主義者ならばこそ、オリンピックなり空道世界選手権なりで、日本が勝った・負けたということに一喜一憂するのが、相応しいと思う。※7
2 週間あまりの闘いの後、オリンピックの閉会式で唱われたのは、イマジン……♪
想像してみよう 国なんて無いんだと
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い ※8
僕のことを夢想家だと言うかもしれないが
いつかあなたもみんなも仲間になって
きっと世界はひとつになる
想像してみよう 何も所有しないって
欲張ったり飢えることも無い
世界を分かち合うんだって
……うん。ロンドンオリンピックは、いい大会だったと思う
※1例えば、携帯電話のない時代「携帯できる電話があったら、どんなに便利だろう?」なんて思ったけど、どこにいても連絡が取れる(=取りたくない連絡も取らざるをえない)今は、「携帯電話なんて、なければいいのに」と思うこともしばしば。けっきょく、なにかしら便利な発明が生まれたところで、自分ひとりがその便利なアイテムを使えるなら幸福感を得られるだろうけど、みんなが持っているんじゃ優越感もなく、それが当たり前になるだけ。しかも、仕事の効率を上げるツールが生まれたら“仕事が早く終わるようになった分、遊ぶ”ようにすればいいのに“仕事が早く終わるようになった分、次の仕事をする”のを当たり前にしてしまうから、どんなイノベーションが起きようと、暮らしは楽にならず。
そういえば、学生の頃、松原(隆一郎)師範の奥様からバイトを頂いて、その内容が「FAX という最新ツールは今後、普及するか?」という討論会への参加だった。「一般には普及しないだろう」という見解を述べた気がするけど、まさか正解が「一般に思いっきり普及し、でも、20 年後には、データ通信に取って代わられる」だとは…。モノの進化はますます加速しているけど、日々の暮らしの中で幸福感は、全然、増さないよね。
※2ヒトが、社会というケージのなかの平和に暮らしている“つもり”になるためには、他にも、いろんなかたちで歪みを埋める作業が行われていると思う。例えば、すべての人間が、自らの意志でなく、与えられた環境によって性格をかたちづくられるのだと考えるのであれば、どんな凶悪犯罪者にしても、本人に罪があるわけではない。それでもそういった人間を極刑に処せねばならないのは、本人に罰を与えるためというよりは「見せしめを残すことで、その後の社会における犯罪の再発を抑止するため」だろう。一方、どこの地域でも、誰かが、毎日、鳥や牛や豚をほふる作業を粛々と、延々と行っている。民衆が何者をも殺さず生きているつもりになる……そんな平和を維持するために、罪なき者に死を与える重責を担っている人たち。裁判官と、と畜場の職員は、ある意味、近い職業かと感じる。
※3他者と成績を争うことより、行為自体の心地良さを求めて行うリクリエーション・スポーツの方が、スポーツとしては、より高いステージにあるともいえる。サーフィン、登山、スキーなどを行う者で「成績」を求めている者は、少ないだろう。誰かの視線を気にすることもなく、自然(山や雪や波といった意味の自然のみならず、重力や空気抵抗なども含む)を感じることこそが、本来のスポーツ(遊び)なのだ。競技を行わずとも、日々の形稽古に高いモチベーションを保ち続けられる武術家などは、この領域にあるといえるだろう。
※4しかしまあ、空道の地区大会なり、プロの興業なりで、選手がカッコよく闘っていると、その取り巻き(同じ道場の所属者とか、友人とか)の声援も威勢良く……というか幅を利かせた体に、なりがちな気がする。「オラ、オラ、やっちまえぇ!」みたいな。そういう輩をみかけると「あんたが強いわけじゃないからね」「群れてんじゃねぇぞ」と言いたくなる気も…。
※5そのスポーツのなかでも、格闘技は、有用度の高いものだと思う。格闘技は、自分の能力を示すための動物的な傷つけあいを、安全性を保つルールのもとで行う、スポーツの元祖とでもいうべきものである。古代、最初に格闘技が生まれ、それが、よりゲーム性・安全性を求めるなかで、さまざまなスポーツに変化していったものと推測される。「すべてのスポーツは格闘技の代替物に過ぎない」と言っても過言ではないか、と。だからこそ、いろんなスポーツにおいて白熱した試合があるたびに「○△(スポーツ名)は、まさしくネットを挟んで行う格闘技ですね」「■×は氷上の格闘技だ」といった表現がなされるのだ。
バカげた話に聞こえるかもしれないが、各国のお偉い人たちをはじめ、世界中の人々が格闘技の練習に取り組んだら、ちょっとは国際問題も緩和するのではないか? と思ったりもする。打撃をともなう格闘技においては、ボールゲームと異なり“本気で”試合形式の練習をすることがない。打撃格闘技の攻撃は、あまりにダメージ大きなものだから、本気で打ち合いをしていては、試合を迎える前に体が壊れてしまう。だから、練習では、本気では打たない試合形式練習(マス・スパーリング)のみが行われる。そして、このマス・スパーリングは相手を信頼していなければ、出来ない。
「コイツのさっきの攻撃、ちょっと強く打ちすぎじゃねぇか? そのうち裏切って、もっと強く打ってくるんじゃないか? だったら、先にこっちから強い攻撃を加えてしまおうか」
そんなが気持ちもたげてくるのを拒む自制心を双方が持っていなければ、マススパーのはずが、次第に、互いに力を込めたスパーとなってしまい、結局は互いの体を蝕んでしまう。とかく「チームプレーのできない我が儘な輩がやるものだろ?」と思われがちな格闘技だが、むしろ、とりわけ緊張・恐怖を感じるスポーツだけに、協調性を必要とする。
「護身のために実用的な技術が養える」と考えて、格闘技を始める人も多いと思うが、法治国家においては、そのような技術を使おうとするよりも法に訴える方がよほど確実な手段であり、格闘技に求めるべきは「心を強くしてくれること」。
格闘技は、格闘の技術以前に、相手を信じる、自分を制する、強い心を養いうる、社会にとって有用度の高いスポーツなのである。
世界がひとつのユニオンとなろうとしたとしても、どこかひとつの国家が抜けがけをしたら終わり。それ以前に、どっかの国が共和国を謳っても、その国の将軍さまなりが「オレの指導のおかげなんだから、オレだけはぜいたくしてもいいだろ?」と言ってるんじゃおしまい。
ひとつの国家を成すのも、けっきょくは、ひとり一人の人間である。国家を動かすのは、ひとり一人の人間の思いの集まりである。とくに今は、インターネットを介して、市民一人ひとりの声が集約され、政治を動かしやすい時代だ。ならば、世界中の国々の、ひとり一人の民に、格闘技で養われるような自制心、相手を信じる気持ちがあれば、すべての国が抜け駆けなく、ユニオンのルールに従って、開発や軍備を放棄することができるものと信じたい。
いじめ問題にしても、子どもに対して「いじめたい気持ちを抑えなさい」というのは無理な話。「自分が何らかのグループに帰属していることを意識し、他の誰かを蔑むことによって安心したい気持ち」がヒトのもつ本能であるからこそ、ヒトは古来、河を隔ててこちら側と向こう側を区別してきた。大人なら理性でそのような衝動を封じ込めることができるとしても、子どもはどうか。いじめたい気持ちの逃がし場を与えることの方が、問題を緩和するかと思う。主将自身、偉そうに「最近の子どもは陰湿になった」とか、言える立場ではない。子ども時代、いろんな面で負い目を感じているからこそ、自分より強い者に媚びつつ、弱いものを攻撃することによって、自分の立場を保ち、誰かをのけ者にする輪に加わることによって、安心感を得ていた。このようなダメ人間(でも、そんなダメ人間が大多数だと思う)には、格闘技でもやらせれば、誰かをブッとばしたい残虐性の発散の場となるし、殴り・殴られの実力主義世界での緊張の連続に疲れ切って、揉め事のない日常を欲するようになるはずだ(むろん、その格闘技の現場でフラストレーションを溜めてしまい、実生活の場で非行に走ってしまうような悪循環のケースもあるだろうが)。
ついでに述べておくと“権力に媚びつつ、弱者を攻撃することによって、自分の立場を保つ”ような弱い心を鍛えられるのが格闘技だと思ってきたことは、主将がプロ選手にならなかった要因のひとつ。
凄く強い選手が、ヤクザもののオーナー・プロモーターにペコペコと頭を下げ続けているのをみるたび「その世界の庇護を受けての成果だったとしたら、まったく本末転倒じゃん」と感じていたからだ。
もちろん、尊敬すべきプロ選手が大半であるし、「所詮、いくら努力しても、上には上がいて、死ぬまで、自分より強い者の前では萎縮し続けるしかない。でもまあ、自分にとって可能な範囲で強くなって、多少なりとも権力に抗えるようになればいい」との割り切りを得るのも、格闘技を通じての成果といえるが。
※6この思想は、社会主義~アマチュアイズムに通ずるものだが、過去を振り返れば分かる通り、社会主義(平等主義)なんて、資本主義(自由主義)を採っている競争相手が存在する状況下では、存続しうるはずもない。世界がひとつのユニオンとなって、ひとつの国の抜け駆けもなく、同じルールを敷けてこそ、成り立つものだ。…社会主義は、基本的に、仕事を頑張る気を奪うものだが、それがちょうど、これからの人類には相応しいような気もする(半笑……この種の政治・経済的な事柄にかんしては、主将自身、不勉強のまま、現状の感覚で述べているだけなので、今後、歳を重ね、知識を得るにつれ、主張も変わるかもしれない。ご了承あれ)。
※7前回の空道世界選手権で、早稲田大学の選手が試合した際、観客席で選手の仲間たちが肩を組み早大応援歌を唱った。盛り上げようという熱意はよいが、国際大会において帰属意識をもつべきは‘国’に対してだから、「ニッポン! チャチャチャ!」なり国をテーマにした応援をするのが妥当だったろう。たとえば野球WBCで阪神の選手が打席に立ったときに、阪神ファンが六甲おろしを合唱したら、世論は「場違いだ」と猛批判したはずだ。紅白歌合戦において、AKB ファンは紅組を、SMAP ファンは白組を、一応は応援するだろう。紅組・白組なんて、12月30日までも、元旦からも、まったく意味はない。それでも、その数時間だけは、出演者も観る側も、そのチームの勝利を願う。オリンピックだって、今後、ますます国際結婚が当たり前になって、人種・民族的にハイブリッドな選手が大半となり、どこの国からも、青い目の選手、黒い肌の選手…が同じような比率で出場するようになるとして、だからこそ、ますます‘国’という区切りに帰属意識を持つことが意味をなすのではないだろうか。各イベントのそういったテーマに沿った応援をすることが「常識的な行い」なわけだが、ただし、あくまで「それが常識的ですよ」というレベルの勧告がなされるのが適正であって、「国のために闘え」「国の応援をしろ!」というような強制的ムードがあるべきではない。最終的には選手が「私は国のためでなく、個人として闘っています」とポリシーを語ろうと、観客が「アイツはオラが村のやりかたで応援してやった方が力が出るんだっぺ」と主張しようと、自由が守られるべきだ。
※8信じた宗教の教えに従った結果、大罪を犯してしまった知人がいる。彼のためにできることは、もはやとても少ない。できることはといえば「すべての宗教は信じなくてもよいものだ」と訴えていくことかと思う。自分が地球上の物質であるかぎり、死ねば、原子レベルに細かく分解されようとも、再び地球上の何かになる。だから、輪廻転生だとか来世は、科学的に考えても、ある意味当然あるとは思うけど、それはキリストだとか仏とかアラーとか、どっかの神とは関係ないことで。何かを神とするのだとしたら、それは、地球だとか、宇宙だとか、海と空と土ってことになると思う。だから、宗教なんて、強い心をもつ大人であれば信じなくてもよいもので、ただ、子どもなり、心の弱い人なりは、不安を解消するために心の拠り所としてよいものかと思う。要は、サンタクロースなり、プロレスなりと同様、尊重すればいい。また、根本的に無宗教主義であっても、みんなが手を合わせ、祈りを捧げる場所では、同じように手を合わせ、心をひとつにする…それくらいの中庸さが必要かと思う。
…しかし、まあ、オリンピックで、韓国のサッカー選手が領土問題に関するメッセージを掲げて問題になったけど、一方で、イマジンも十分に政治・宗教的メッセージをもつ曲なわけで、あっちはNG でこっちはOK なラインはどこなのかと思ったりもする。ある意味、有名で才能のあるアーティストが、多くの人を魅了する作品を媒介として、政治・宗教的メッセージを広めてしまうことも、ズルいわけで。…それはともかく、あんまり影響力のなさそうな武道指導者が、その武道のサークルのHPで、個人的な政治・宗教観を語るくらいは、なんの問題もないでしょう(笑)。