最近、ユーチューブとかで日体大とかの「集団行動」が、多くの人の興味を誘っているらしく。
あれって、すごく日本人的だよね。決められた動きを大人数で、一糸乱れぬタイミング、等間隔で、ビシッと決める。
あれだけのことを一寸・1 秒の狂いもなくキチンとこなすというのは、職人芸だよな。美しい。カッコいい。
一方で、あれは、明治以降の「体育」の思想が、今も教育の現場に受け継がれていることの象徴なのかな? と疑ってしまう。
明治以降の「体育」というのは、コラム♯13で書いたアレだ。
――軍国主義化のなかで協調(という名の服従)を美徳とする都合のよい民を量産するために、本来“自由な遊び”であるはずのスポーツを“ビシ
ッと整列して・笑わず・背筋を伸ばして・個人的な感情を持たず・指示通りの動作をする”教育に変化させたもの。
そして、ときどき思うのは、武道における基本・移動稽古も、多分にその明治以降の流れを汲んで形成され、今も形骸化した姿で継続されているに過ぎないのかな? ということ。
集団で同じ動作を行う基本・移動稽古の利点としては、指導者1 名で、大人数の生徒をいっぺんに指導できるという点がある。
でも、これって、教える側の都合のためであって、教わる側にとっては効率的じゃないかも? と。
たとえば、キックボクシング系のジムのやり方としては「生徒を一人ずつ呼び出し、コーチが3 分×2Rミットを持って指導。指導を受ける6 分間以外は自由練習」といったかたちが一般的。僅かな指導時間以外は放置されるわけだ。これに対し、武道系の道場だと、指導者が号令を掛け、集団に同じ動きをさせることによって「90 分間指導した」という形式を保つわけだが…。
現実をみれば、例えば合宿で指導した際。キックボクシングのジムで経験を3 ヶ月積んだ後に空道に転向して間もない人の方が、最初から大道塾に入門して集団稽古での基本・移動を3 年積んで茶帯になった人より、よっぽど基本のフォームが上手かったりする。
その茶帯に、フォームの問題点を指摘すると「青帯になってからは基本・移動の稽古の間、一度もフォームの問題点の指摘を受けたことなどない」と言う。
そりゃ“6 分間のミット持ちの間に、その生徒特有のクセを指摘できて、残りの自主練習の時間に、その修正に取り組ませることが出来る”のと“90 分間、全員を号令で動かすけど、時間を食ってしまうから個別には声を掛けられない”のとでは、前者の方が、生徒を成長させるうえで、効率がよいだろう。
ジム形式の方が「自由な代わりにいい加減」にみえて、実は効率的で、道場形式の方は「厳しく=しっかり指導しているようで、実は稽古のための稽古にしかなっておらず、成果のための稽古にはなっていない」のではないか。
もちろん、「みんなで同じことをやる」式にも、よい点は多い。連帯感が生まれる。みんなで同じことをやっているからこそ、誰かの元気がない日があっても、周りのみんなの気合いで、折れかけていたその心を引き上げられる。強制的にひととおりのことをやらされるからこそ、偏りのない技術が形成され、結果、長く競技を楽しめる。クラシカルな日本流スタイルを継承しているオランダの“ドージョー”が、多くの名格闘家を輩出していることは、そのシステムの優秀性の証だろう。
では、この「みんなで同じことをやる」式を武道的雰囲気づくりのための、統制をとるための手段に終わらせず、生徒みんなを高めうる指導法とするには、どうすればよいのか?
要は「みんなで同じことをやる」式を採用しながらも、指導者は個々の生徒に声を掛ける(誉める・修正すべき点を指摘する)機会を多く持ち、マンツーマン指導の時間と、生徒の自主性に任せた自由練習の時間をバランスよく併せ設けることが、肝要かと思う。