全日本大会などを観戦中、関係者同士で会話をすると、まぁ、悲観的というか自虐的というか、あるいは“自分たちの時代”をよく思いたいだけなのか、ネガティブな現状評価に陥りやすい。いいところには目を向けず、選手・組織のアラを探しがちになるものだ。ポジティブに考えれば希望に満ちてくるだろうに、つい、将来への不安要素ばかり煽ってしまう。
たとえば、久々に会った後輩からは、「先輩! 選手のレベル、落ちましたよね」といった言葉が出るが。果たして、20年前、大道塾の選手の技術レベルは、そんなに高かったっけ?
私見では、格闘技ブームに乗っかっていた1980年代終盤~90年代前半までは、確かに一部のトップ選手は素晴らしい技量を有していたけれど、その下にあるべき中間層がポッカリ空白だったと思う。
逆に中間層が厚かったのは、北斗旗が格闘技ブームの潮流とは一線を画し、スター不在となった90年代後半ではないか?※ この時代の選手は、実力を有していても、全日本大会まで駒を進められないことが多かった。
いずれにせよ、大道塾という団体の所属選手の全体的なレベルは、そのときどき、高くなったり低くなったりすることがあったにせよ、所詮は新興スポーツの競技レベルの範疇だ。コラム♯2で述べた通り、競技が創始されて10年とか30年の段階にあるものをレベルで査定し、悲観する必要はない。
ただ・・・。
ひとつ、「これは見過ごせない」と思うのは、大道塾という団体以外から、この競技大会に参加してくる選手の減少だ。90年代のはじめくらいまで、大道塾の選手と、それ以外の団体の選手の参加比率は1:1くらいだった。それが、今や、地区予選大会でも、大道塾外の選手は各階級に0~3人エントリーしているくらいか?
結果として「大道塾の選手の平均的な技術レベルは昔からそんなに変わっていないにしても、大会全体の緊張感とか、盛り上がりとかは、落ちている」とか「大道塾の選手の平均レベルが横ばいでも、大道塾以外からの参加者のレベルが下がっていくのでは、競技自体のレベルは、少しずつ低下しながら将来に向かう」という見方は出来るかもしれない。
これは、残念なことだ。
観て楽しいのは裸のMMA。やって面白いのは着衣の総合武道。 双方の競技を経験し、それぞれの素晴らしさを確かめたうえで、着衣の総合武道の普及に携わっていくことを決めた身だ。
「大道塾の選手レベルなど落ちてもいい。大道塾という団体自体がなくなってもいい。この競技がより、多くの人に親しまれるようになりさえすればいい」と思っているし、世界大会の日本代表の過半数が大道塾外の選手となり、その団体の枠を越えたチームによって日本が復権を果たす・・・そんなストーリーを望んでいる。
そんな私にとっては、なぜ、もっと大道塾外からの参加者が増えないのか? もどかしい気持ちはある。
何でやらないの? こんなに面白いのに?
そんな風に思うわけだが、一方でその原因を確信してもいる。
スポーツ競技普及のための2大原則は「ルールがシンプルなこと」と「お金が掛からないこと」といわれる。
にもかかわらず、我らの競技は、年を経るごとに、審判も戸惑うほどルールが複雑化している。大会にエントリーするためには、指定のヘッドガード&拳サポーター、白&青の道着を購入せねばならぬうえ、社団法人への個人登録料が必要にもなった。
これでは、普及2大原則に逆行している。大道無門のはずが、門を狭めているかのよう。
ルールを整理し、競技者にも審判にも観衆にも、より分かりやすいものにする。競技に取り組むために必要な初期費用を抑える。
その2つのことさえ達成できれば、空道は、競技として普及するだろう。連盟が、競技規則をよりよき方向に変えていくことを望みたい(このようなコラムに記すからには、すでに連盟に対し、その意見は述べている)。
今は歯痒い状況だが、一方で、明るい未来への道はみえている。なぜなら・・・繰り返しになるが・・・この競技は根本的に面白いからだ。
※格闘技マスコミの仕事に携わって思うことのひとつは「ブームが終息して、数年後、もっともその競技にレベルは高くなる」ということ。ブーム中にその競技に取り組みはじめた選手たちが、ブームが去っても競技を愛し続け、5年~10年を経てから、ピークパフォーマンスを発揮するからだ。だから、たぶん、日本におけるK-1系競技やMMA競技のレベルもあと数年は向上していくであろう。その後、どうなるかが正念場だ。ちなみに、格闘技マスコミの仕事に携わって思ったことのもうひとつは「組織は旗揚げして最初の5年はどこだって理想と希望に満ち、勢いがある。綻びがみえはじめるのは、10年経ってから」ということ。30年経ってもポリシーが変わらず、安定している組織はごく稀。素晴らしい!