16 歳で空道をはじめて、大学に進学した年に、たまたま早大準支部が開設されたから、その初回稽古から“初心者を指導する側”だったんだよな。
その後、学生として5 年間、93 年に社会人になってから20年間、 早大準支部の稽古に参加し続けてきた。ここ2年ほどは、正式に“コ ーチ”として指導を行ってきた。その任期満了を区切りに、来年、 2014 年度からは早大の方には顔を出さず、水道橋支部の運営に専念する予定だ。※1
写真は、大道塾早稲田大学準支部設立以来25年間の、全日本大会ファイナリスト&世界大会入賞者。上段左から、勝直光(10 年全日 本大会-250級優勝、08年秋季同準優勝)笹沢一有(05年全日本大会-250 級優勝、09&12年同準優勝、13年全日本大会-260級準優勝、05年世界大会-250級3位)、三木善靖(09年世界大会+270級3位)、下段左から、中村知大(09年世界大会-230級準優勝)、 私・朝岡秀樹(92 年全日本大会-230級優勝、95年同準優勝)、田中洋輔(10年全日本大会-240級準優勝)。
主将を囲む面々について「彼ら全員、私が育てました」ってセールスしたら「おいおい」って言われるかな?(笑)
なにしろ、手取り足取り教えたかっていうと、そういうスタンスじゃなくて、自分も一緒に稽古してただけだもんな。20代、30代の ときの話だけじゃなくて、40代以降もずっと、先輩として共に稽古してきただけ。ぶっちゃけ、連中、勝手に強くなってった!
そりゃ、連中が初心者の頃は、全体のカタチづくりぐらいは少しはしただろうけどな。基礎ができてから、技に磨きを掛け、ボクシングなりMMAなりムエタイなり柔術なり、他競技の偉大な師からディティールを学び、それぞれオリジナルの組手スタイルを完成させたのは、連中各々。
ただ、主将自身、今でも、入門したばかりの白帯からだって、技術的なことで気づかされることってたくさんあるからな。“それぞれの人間は、巡り合った人、すべてに影響を受けて今のその人がある※ 2”……そういう意味も含めれば、まぁ、連中に“教えた”ともいえるんだろうな。拡大解釈的にいえば、「皆、オレの師」だから、「オ レは皆の師」だと!
うん、胸を張って「勝直光、笹沢一有、中村知大、三木善靖、田中洋輔。皆、私の教え子です」と実績を誇ろう。それはつまりは「我の命は、この大地や風や太陽から与えられたものであり、我の行動は、この宇宙に影響を与えるものである」ってことナリ。
※1…同じ指導者が20年、30年と同じ場所で指導していることのよさもあれば、弊害もあろう。大学や高校のチームにかんしていえば、同じ指導者が“そこに居座り続ける”ことで、指導する側と指導される側の年齢差が大きくなっていき、稽古内外の万事にかんして感覚を共有できなくなってくるケースもあるに違いない。指導者が指導される側と近い世代に代わるなど、新しい風を吹かせることのメリットは大きい。ときには、指導者不在の時期があった方が、学生の自立心が育ったり もするものだ(もちろん、明治大学ラグビー部の故・北島忠治監督のようなカリスマともなれば、そこに座り続けているだけで、チームに好影響を与えられるのだろうけど…)。そのような考えから、2年ほど、きっちり指導をして、若い世代に、学生の指導を引き継ぎたいという気持ちに至った。… ま、30、40と歳を取るにつれ、教員でもないのに大学をうろうろし続けていることにかんして「オレっ て『社会で肩身の狭い思いをしてるぶん、いつまでも古巣に顔出して大きな顔してるおっさん』みたいにみられてないかなぁ」と思ったりしたことも、なきにしもあらず、で。
※2…まだ、成績を上げなきゃスポーツ(武道含む)をやることに意味はないと思っていた18、19歳の頃、横浜支部に出稽古に行った際、稽古場所の「読売文化センター」の更衣室で、楽しそうに「あなたはココがうまくなった」「いやいや、私はまだ、アレを磨かなきゃ…」と会話するおじいさんたちに会ってな。隣の練習場で“かっぽれ”を踊るグループだったんだけど。これから何を目指すというわけでもない彼らが、心から技量の向上を楽しんでいる様に衝撃を受けてな。それが、スポーツの本質について考えるきっかけになった。先生はどこにでもいるもんだよな。問題は、すぐそばにいるその存在に、気づくかどうか、だ。