もう5年以上前になるかな?
総本部で1年間ほど、週2回、定時稽古の指導を担当していた。
そのとき、張り切って「1年間でひととおりのテクニックを身につけられるよう、週2回×50週で100回、毎回、新しいことを教えよう! 稽古に毎回来る人もいれば、たまにしか来ない人もいるわけだけど、たまにしか来ない人のために、何度も説明したことのある技術をまたイチから説明したりしたら、毎回来ている勤勉な人に対して失礼だからな。毎回参加している人に満足してもらえるよう、毎回、新たなことを教えよう」と考えたんだけど…。
結果、1年が経った頃、ショックな出来事があった。
毎回参加している熱心な人から「先輩! 先日、○△支部に出稽古に
行ったら、こんな技を教わったんです。どうでしょうか、この技は?」と訊かれたんだよ。それが、1年の始めに、自分が「まずは、これが基本だから」と、教えたのとほぼ同様の技だった…。
つまりは、毎回、新しい技術を紹介したところで、反復・復習の時間を十分に持たせねば、消化不良を起こし、忘却の彼方に置かれるだけで、何も残らないんだよな。
とはいえ、毎回、同じことを教えていたのでは、毎回参加している生徒が「また、同じ説明かよ!」と飽き飽きしてしまうのも確か。
1~4まで、すべてが現実なわけで、各回の稽古において、場所(広さ・用具の揃い具合など)や天候(温度・湿度など)、メンバー(人数、初心者と上級者のバランス)、与えられた時間……等に応じて、いかにメニューを処方するかが、指導者の力量の見せどころということだ※1。
今は、あの5年前の頃より、指導者として格段に「新しいメニュー」と「同じメニュー」のバランスの取り方が上手くなったんじゃないか、と自負している※2。
部活的、昭和的な指導だと「最初の3カ月は受け身だけ。受け身が完璧になってから投げを教える」「最初の1カ月はジャブだけ。ジャブが出来てから、ワンツーを教える」といった“1ができるまで2は教えない”方式。逆に現代のスポーツクラブのマーシャルアーツ・クラスなどだと「生徒さんはお客様。お客様には、最初からいろんなことをダイジェスト的に楽しんでもらう」という“1もまともにできない人に10教える”方式。あとは、極真とかブラジルのシュートボクセみたいに、初心者をいきなりスパーに混ぜてボコボコにして「習うより慣れろ」って方式※3。いろいろあるけど、主将の考えは “1が完成していない段階で、2までは教えてしまった方が、逆に1への緊張が解けて、1自体の習得も早くなる。ただし、1が完成していない段階で3まで教えると消化不良を起こすから、そこまでは教えない”といったところかな。
現状、水道橋の白~色帯レベルの技術講習においては……
……等は、一切、教えていない。
“いろいろ教えるとかえって技術が散漫になる”ということを前提に、では、何を削るべきか?過去の空道の試合映像において“出現頻度の少ない技術”を割り出した結果、そうしている。
まぁ、「名選手、名監督にならず」とよく言うが、仕事柄、さまざまなスポーツの高校・大学のチームに足を運ぶなかで「なるほど。こういうことか」と思った。現役時代、凄いテクニシャンだった指導者にかぎって「ほら、こんな技もあるよ。他にも、こんなのもあるよ」と、ハイレベルな技を次々、伝授しているのだ。身につけさせることがゴールでなく、教えることがゴールになっている……ある意味、自己満足の指導法だ。
一方でその競技の選手経験のない指導者(実の親とか)の根性主義の熱血指導によって、多くの名アスリートが育っていることを考えると、やっぱり大事なのは、まずメンタルなんだよなぁ。アメリカのウェイトトレーニングのトレーナーの「ワンモア!カモ~ン!」「ユーキャン・ドゥーイット!」って恥ずかしいぐらいにチアアップするアレ。アレだよね。結局、指導の基本は。あとはペップトークというか、いかに言葉の魔術で、誇りや自信を持たせるか。あるラインを越えると、もはや、宗教とか催眠術とか、詐欺とかに近くって、そこまで他人が心をいじって勝たせたところで、スポーツや武道といえるのかなって気はするけどね。
そういや、仕事で、いろんな身体づくりのエキスパートと会うけど、別の研究者の著作をめくりながら「なんだ?この写真のフォームは。この先生は、ここがダメだな」なんてあざける人も多い。初めて行く歯医者で「前はどこの歯医者さんに行ってたの? 作業が雑だなぁ」なんて言われたりするのと同じ。なんだか“自分の方が上”と印象づけるテクニックのようで、言われた側は気持ち悪いんだよね。だから、誰か別の師に就いていた人を教えることになったとき「それ、誰に習ったの?ちょっとおかしいよ」というようなことを言うのは、ダメな指導者だと思っている(……でも、どうしても言う必要があるときは、主将もキッパリ言うけど)。
※1生徒の人数が少なくて、かつレベル差が激しい稽古のときが、一番の指導者の腕の見せ所だよな。総人数が偶数か奇数か、サンドバッグや鏡がある(一人でも練習ができる)環境か、などで変わってくるし、文章で説明し切れるようなものじゃないけど、人数が少ないときは技研や技術講習(生徒全員に共通の指導をするか、ミット等での個別指導)に時間を割く、人数が多いときはマススパーやドリル練習を淡々とこなす…といった傾向を持たせているかな。主将の場合。
まあ、生徒にとって大事なのは、教わる時間(技術講習)・自分で反復練習する時間(自由練習)・試す時間(スパー)を偏りなくもてることだ。ある日の稽古がスパーに偏ったとしても、別の機会には、技術講習に偏った日があり……トータル的にはバランスがとれているようにメニューをプログラムすることが肝要だ。
※2指導者が指導内容・方針を変えていくことは、当然のことだ。どんな競技の技術も永遠に進歩していくのだから、指導者も、常に技術やテクノロジーの潮流についていこうと努力していなければならない。 5年・10年とまったく同じ指導内容の人がいたとしたら「新たに学ぶことをやめてしまった人」だということだ。指導者は胸を張って「これまではこう教えていたけど、これからは、これに変える」と、告げればよい。その際、自らの過去の指導にかんして「あの時は、ひどくてすみませんでした」といった詫びを入れるべきではない。それは、当時の生徒に対して、かえって失礼な行為となる。「そのときの指導はそのときのベストで、今はよりよいものをみつけたのだ」と、誇りをもつべし。……謙遜のつもりが、かえって誰かの心を傷つけることって多いもんだ。主将は、憧れてたある理論家に会ったときに「学生の頃、読ませて頂いた○▼、めちゃくちゃ感動して、それ以来、実践してきました」みたいなことを言ったら「あ~、あのときのアレ、まだ私、未熟で全然、間違っててごめんなさいね」と返されて、言葉を失ったことがある。それ以来、たとえば、空道のことをまったく知らない人に「へ~、総合格闘技の全日本チャンピオンだったんですか!凄いですね!」と言われたとして「いや、つってもいろんな組織があるなかの一つの大会で、選手人口は※◆で、特にその年は■×だったから、たいしたことないですよ」的な卑下はせずに「自分なりに精一杯頑張って得た結果です」と。だって、じゃないと、その年、主将と闘った人たちに失礼だもんね。
※3最初からスパーに混ぜる利点として“最初は誰だって弱いから、先生にボコボコにされる→トラウマが残り、後に、実力ではその先生より強くなっても、先生に対してはスパーで気後れしたまま→道場内の秩序が保たれる”が、ある。子犬のうちに鼻っ柱をブン殴ってキャインと言わせておけば、成犬になっても飼い主の命令に従い続ける……犬の調教と同じだ。決して勧められるやり方ではない。統制は、恐怖でなく、尊敬・信頼によって保つべし。