ジャケットMMA≒柔道+空手 KARATE+JUDO≒KUDO 御茶ノ水(淡路町・小川町)にある総合格闘技道場。

(社)全日本空道連盟 総合武道 大道塾 御茶ノ水支部

主将のコラム

コラム ~#31 › コラム #30~#1

column#43

最後の……稽古内容について考えるその4
同じメニューを反復させるべきか?
新しい技術を教えるべきか?

 もう5年以上前になるかな?
 総本部で1年間ほど、週2回、定時稽古の指導を担当していた。
 そのとき、張り切って「1年間でひととおりのテクニックを身につけられるよう、週2回×50週で100回、毎回、新しいことを教えよう! 稽古に毎回来る人もいれば、たまにしか来ない人もいるわけだけど、たまにしか来ない人のために、何度も説明したことのある技術をまたイチから説明したりしたら、毎回来ている勤勉な人に対して失礼だからな。毎回参加している人に満足してもらえるよう、毎回、新たなことを教えよう」と考えたんだけど…。
 結果、1年が経った頃、ショックな出来事があった。
 毎回参加している熱心な人から「先輩! 先日、○△支部に出稽古に
行ったら、こんな技を教わったんです。どうでしょうか、この技は?」と訊かれたんだよ。それが、1年の始めに、自分が「まずは、これが基本だから」と、教えたのとほぼ同様の技だった…。
 つまりは、毎回、新しい技術を紹介したところで、反復・復習の時間を十分に持たせねば、消化不良を起こし、忘却の彼方に置かれるだけで、何も残らないんだよな。
 とはいえ、毎回、同じことを教えていたのでは、毎回参加している生徒が「また、同じ説明かよ!」と飽き飽きしてしまうのも確か。

  1. 新しいメニューを与えることで、生徒のモチベーションを上げられる。
  2. しかし、メニューを変えすぎれば、生徒は、消化不良を起こす。
  3. 同じメニューを与え続けると、生徒は、同じ作業がより上手く出来るようになっていくことに喜びを感じる。
  4. しかし、メニューを変えなすぎだと、生徒は飽き飽きしてしまう。

1~4まで、すべてが現実なわけで、各回の稽古において、場所(広さ・用具の揃い具合など)や天候(温度・湿度など)、メンバー(人数、初心者と上級者のバランス)、与えられた時間……等に応じて、いかにメニューを処方するかが、指導者の力量の見せどころということだ※1
 今は、あの5年前の頃より、指導者として格段に「新しいメニュー」と「同じメニュー」のバランスの取り方が上手くなったんじゃないか、と自負している※2

部活的、昭和的な指導だと「最初の3カ月は受け身だけ。受け身が完璧になってから投げを教える」「最初の1カ月はジャブだけ。ジャブが出来てから、ワンツーを教える」といった“1ができるまで2は教えない”方式。逆に現代のスポーツクラブのマーシャルアーツ・クラスなどだと「生徒さんはお客様。お客様には、最初からいろんなことをダイジェスト的に楽しんでもらう」という“1もまともにできない人に10教える”方式。あとは、極真とかブラジルのシュートボクセみたいに、初心者をいきなりスパーに混ぜてボコボコにして「習うより慣れろ」って方式※3。いろいろあるけど、主将の考えは “1が完成していない段階で、2までは教えてしまった方が、逆に1への緊張が解けて、1自体の習得も早くなる。ただし、1が完成していない段階で3まで教えると消化不良を起こすから、そこまでは教えない”といったところかな。
  現状、水道橋の白~色帯レベルの技術講習においては……

  1. 打撃においては、ミドルキックをヒザブロックする、構えをスイッチする
  2. 投げ技においては、背負い投げや内股、片足タックル
  3. 寝技においては、ハーフガードを巡る攻防、複雑な手順を要する技

……等は、一切、教えていない。
 “いろいろ教えるとかえって技術が散漫になる”ということを前提に、では、何を削るべきか?過去の空道の試合映像において“出現頻度の少ない技術”を割り出した結果、そうしている。

 まぁ、「名選手、名監督にならず」とよく言うが、仕事柄、さまざまなスポーツの高校・大学のチームに足を運ぶなかで「なるほど。こういうことか」と思った。現役時代、凄いテクニシャンだった指導者にかぎって「ほら、こんな技もあるよ。他にも、こんなのもあるよ」と、ハイレベルな技を次々、伝授しているのだ。身につけさせることがゴールでなく、教えることがゴールになっている……ある意味、自己満足の指導法だ。
 一方でその競技の選手経験のない指導者(実の親とか)の根性主義の熱血指導によって、多くの名アスリートが育っていることを考えると、やっぱり大事なのは、まずメンタルなんだよなぁ。アメリカのウェイトトレーニングのトレーナーの「ワンモア!カモ~ン!」「ユーキャン・ドゥーイット!」って恥ずかしいぐらいにチアアップするアレ。アレだよね。結局、指導の基本は。あとはペップトークというか、いかに言葉の魔術で、誇りや自信を持たせるか。あるラインを越えると、もはや、宗教とか催眠術とか、詐欺とかに近くって、そこまで他人が心をいじって勝たせたところで、スポーツや武道といえるのかなって気はするけどね。
 そういや、仕事で、いろんな身体づくりのエキスパートと会うけど、別の研究者の著作をめくりながら「なんだ?この写真のフォームは。この先生は、ここがダメだな」なんてあざける人も多い。初めて行く歯医者で「前はどこの歯医者さんに行ってたの? 作業が雑だなぁ」なんて言われたりするのと同じ。なんだか“自分の方が上”と印象づけるテクニックのようで、言われた側は気持ち悪いんだよね。だから、誰か別の師に就いていた人を教えることになったとき「それ、誰に習ったの?ちょっとおかしいよ」というようなことを言うのは、ダメな指導者だと思っている(……でも、どうしても言う必要があるときは、主将もキッパリ言うけど)。

※1生徒の人数が少なくて、かつレベル差が激しい稽古のときが、一番の指導者の腕の見せ所だよな。総人数が偶数か奇数か、サンドバッグや鏡がある(一人でも練習ができる)環境か、などで変わってくるし、文章で説明し切れるようなものじゃないけど、人数が少ないときは技研や技術講習(生徒全員に共通の指導をするか、ミット等での個別指導)に時間を割く、人数が多いときはマススパーやドリル練習を淡々とこなす…といった傾向を持たせているかな。主将の場合。
 まあ、生徒にとって大事なのは、教わる時間(技術講習)・自分で反復練習する時間(自由練習)・試す時間(スパー)を偏りなくもてることだ。ある日の稽古がスパーに偏ったとしても、別の機会には、技術講習に偏った日があり……トータル的にはバランスがとれているようにメニューをプログラムすることが肝要だ。
※2指導者が指導内容・方針を変えていくことは、当然のことだ。どんな競技の技術も永遠に進歩していくのだから、指導者も、常に技術やテクノロジーの潮流についていこうと努力していなければならない。 5年・10年とまったく同じ指導内容の人がいたとしたら「新たに学ぶことをやめてしまった人」だということだ。指導者は胸を張って「これまではこう教えていたけど、これからは、これに変える」と、告げればよい。その際、自らの過去の指導にかんして「あの時は、ひどくてすみませんでした」といった詫びを入れるべきではない。それは、当時の生徒に対して、かえって失礼な行為となる。「そのときの指導はそのときのベストで、今はよりよいものをみつけたのだ」と、誇りをもつべし。……謙遜のつもりが、かえって誰かの心を傷つけることって多いもんだ。主将は、憧れてたある理論家に会ったときに「学生の頃、読ませて頂いた○▼、めちゃくちゃ感動して、それ以来、実践してきました」みたいなことを言ったら「あ~、あのときのアレ、まだ私、未熟で全然、間違っててごめんなさいね」と返されて、言葉を失ったことがある。それ以来、たとえば、空道のことをまったく知らない人に「へ~、総合格闘技の全日本チャンピオンだったんですか!凄いですね!」と言われたとして「いや、つってもいろんな組織があるなかの一つの大会で、選手人口は※◆で、特にその年は■×だったから、たいしたことないですよ」的な卑下はせずに「自分なりに精一杯頑張って得た結果です」と。だって、じゃないと、その年、主将と闘った人たちに失礼だもんね。
※3最初からスパーに混ぜる利点として“最初は誰だって弱いから、先生にボコボコにされる→トラウマが残り、後に、実力ではその先生より強くなっても、先生に対してはスパーで気後れしたまま→道場内の秩序が保たれる”が、ある。子犬のうちに鼻っ柱をブン殴ってキャインと言わせておけば、成犬になっても飼い主の命令に従い続ける……犬の調教と同じだ。決して勧められるやり方ではない。統制は、恐怖でなく、尊敬・信頼によって保つべし。

column#44へ  このページのトップへ  column#42へ

Copyright© 2014 一般社団法人 全日本空道連盟 大道塾 御茶ノ水支部 All Rights Reserved.